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歴史初心者のための「伊達政宗」〜壮年期・晩年期編〜



暇と性欲を持て余したガガリアンの皆様、いかがお過ごしでしょうか?

いよいよこのシリーズも佳境に近付いてまいりました。
思えば、歴史の専門家でもない記者がこんな記事を書くのも相当お恥ずかしい事なのですが、
「伊達政宗って、名前は聞いたことあるけどどんな人か知らないなぁ?」
「伊達政宗?知ってるよ!奥州筆頭でしょ!War Dance!!
「政宗×幸村ハァハァwwwwww俺の心のち○ぽが勃起するwwwwwwwww」(何故か腐女子って「俺女」多いですよね)

といった方に少しでもイメージを持って貰えたら、こんなに幸せな事はありません。
もっと詳しい方から見れば穴だらけの記事ではありましょうが、お目こぼし下さいませ。


詳細は以下から・・・・・・。
※この記事は、”歴史初心者のための「伊達政宗」〜少年期編〜” ”歴史初心者のための「伊達政宗」〜青年期編〜”の続きとなっております。



さて豊臣の小田原城・北条氏攻めに参陣した政宗。
これを見てがっくり肩を落としたのは北条氏。それも仕方ありません、北条氏と伊達氏は長い同盟関係にあったのですから。
北条氏は諦めて秀吉に降伏をしました。これにて秀吉は関東平定を完了し、それと同時に天下統一を成し遂げたのでした。
その翌年、葛西大崎一揆が発生します。これはもともと東北地方の大名だった葛西氏と大崎氏が
秀吉によって新しく領主に命ぜられた木村氏に対して反発して起こった一揆でした。
これを平定したのは政宗と蒲生氏の連合軍だったのですが、その一揆は実は陰で政宗が扇動したというまことしやかな噂が駆け巡ったのです。
その根拠となったのは蒲生氏が入手した、政宗が書いたとされる一揆勢宛ての手紙でした。その他にも雑多な噂がたくさん流れ、秀吉の耳にも入ります。
そこで政宗は先手を打ち、自ら秀吉のところまで足を運ぶのですが、この時にも政宗は白装束を身につけ、さらに金箔を貼り付けた十字架を持参したのです。
「You、俺を殺すならこの金の十字架にはりつけにしちゃいなYo!!」
金と言えば成金猿こと秀吉の大好物。秀吉はこれが政宗のパフォーマンスであることを理解しつつも、その行いを面白がってもいたようです。

そして政宗は秀吉に会うと、久保帯人や岸本斉史もびっくりの後付け設定で言い逃れを始めました。
「言い忘れていたが、実は俺が書く手紙のサインには針で穴が開けてあったんだぜ!」
蒲生氏が入手した手紙のサインには穴があいてませんでした。実際のところ、これが真実だったのか、或いは2種類のサインを使い分けていたのか、
それとも単なる口から出まかせなのかは未だにはっきりとは分かっていません。ですが秀吉は許しちゃいます。

民衆に支持されていた政宗を、はっきりとした根拠も無しに斬ってしまっては自分の立場が悪くなると考えたのではないか、とも言われています。
自分に人気がない事を自覚しているあたりは秀吉もさすがといったところでしょうか。ルーピーとは大違いですね。

その後秀吉の朝鮮出兵にも政宗は同行します。ここでも政宗は秀吉の喜ぶツボをおさえます。
自分の軍勢に、ものすごく派手で目立つ、絢爛豪華な戦装束を着せたのです。政宗軍が京都へ上洛する間も、そして京都に着いてからも
民衆はその姿を盛んに噂し、歓声を上げたと言われています。これが『伊達者』という言葉の語源にもなっています。
実はこれにも理由があり、この派手な軍を秀吉はきっと自分の近く、つまり本陣近くに配備させるに違いないという政宗の計算だったのです。
もうろくジジイのお遊びに本気で付き合うつもりは最初から無かったのでしょう。

その後何度か謀反を疑われたりしながらも、のらりくらりとかわし続ける政宗。そして気付いたら、サルの方がいつの間にか死んでました。
織田信長の天下統一事業を継ぎ、必死の思いで成し遂げた統一も、秀吉の死後たった2年で再度分裂してしまいます。あわれ・・・。

そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦です。

ここで何としても勝たなくてはならなかった家康は政宗にもお手紙を書きました。
「この戦を手伝ってくれたら100万石あげちゃう! だからお願い! 上杉を会津に抑えつけて!」
これを聞いた政宗はウキウキ気分で二つ返事。実際、政宗は関ヶ原の合戦時、そこそこいい仕事をしてます。
上杉軍の直江兼継が攻め込んできたと見るや援軍のみを送り、自分は上杉領に軍を送り城を落とします。
直江の軍が帰るとさらに別方向に進撃、上杉軍の別部隊を撃退し城を包囲しますが、防衛部隊が強力だったのであっさり撤退してます。
その傍ら、またも政宗は暗躍します。ほっといても家康が100万石あげちゃう!と約束してくれてるにもかかわらず
自分の子飼いの武将にまたも一揆を起こさせ、こっそり領地を拡げようとしました。
関ヶ原の合戦でドンパチやってる最中にそんな余裕があるとは。
ところが思いのほかあっさりと関ヶ原の合戦が終結。戦後になってこの政宗の謀略が家康にバレてしまいました。家康は秀吉とは違い許してくれませんでした。
「オイコゾー(ビキビキッ !? テメー何 ”勝手なコト” してくれちゃってんだコラァ!?」
ブチキレ@家康さんの怒りに触れてしまい、100万石の約束は無かった事になり、ほんのちょびっとだけの領地しかもらえませんでした。

この時にもらった領地を加えた60万石の土地が、のちの仙台藩となりました。
その後政宗は自領の開発に精を出します。街を作り、土地を耕し、治水を施し、港を作り、あっという間に仙台藩は全国でも有数の都市になったのです。
後に、60万石ちょいの仙台藩で穫れた米が石巻港から江戸へ流通し(東廻り航路)、江戸で消費される米の半分が仙台藩で生産されていた米だったとされています。
その米ははるばる大阪までも流通したとか。西日本で虫害が起きた時や全国的に不作の時には、江戸のお米事情は仙台藩が支えていたと言っても過言ではない程です。
また三陸沖という恵まれた漁場も持ち、アワビやサメを加工して、干しアワビやフカヒレとして輸出していました。
ですが藩の主な収入源は米。米があまりに穫れたため、他にあまりこれといった産業が発展しませんでした。
そのため米の出来によっては借金まみれになり、豊作の年にその借金を全部返す、といったようなこともあったそうです。
さらにエスパーニャ(スペイン)との交易を計画し、エスパーニャ国王フェリペ3世が送り込んできた使節、セバスティアン・ビスカイノの協力を得て
ガレオン船を建造。200人近い家臣を船に乗せてエスパーニャに送りました。(慶長遣欧使節)この時の子孫が今でもスペインにいるそうです。

さて話は政宗に戻ります。
1614年、大阪夏の陣にも伊達軍は参加。かの真田幸村率いる軍勢とも戦いました。ですがどうも政宗はあんまりやる気がなかったようです。
味方からの伊達郡に対する再三の支援要請ものらりくらりと断り、挙句の果てには政宗自ら味方の陣に赴くと「やらねーっつってんだろ!!」と逆ギレ。
幸村は「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東マジ乙wwwwwww百万も兵がいてもwwww全員タマ無しwwwwwwm9(^Д^)プギャー」)
という言葉を残しています。<s>そういえばレビルが同じようなことを言ってましたけど、これが元ネタでしょうか?</s>
その後、世間が平和になってからは、あんなに苛烈な日々を過ごした政宗もすっかり丸くなります。
忠義深く誠実で、それでいてはっきり物を言う政宗は、家康亡き後も将軍家に重用され、また良く仕えたと言い伝えられています。
二代将軍秀忠はおろか、三代将軍家光の時代になると、もはや戦国時代を生き抜いた雄と言える大名は殆ど残っていませんでした。
その中で、かつて秀吉や家康と同じ時代を生き、肩を並べてきた政宗は、あたかも偉大な父のように感じられたのでしょう。
彼らは政宗を「伊達の親父殿」と呼び、慕いました。特に実戦経験のない家光は、自分のところに呼びつけては、かつての合戦の話を聞いて顔を輝かせていたそうです。

政宗が将軍家に深い信頼を得ていたこと、そして政宗の忠義深さを示す逸話として、こんな話が残っています。
当時将軍に謁見する際は、武士の誇りとまで言われた刀を置いて行かなければなりませんでした。
しかし政宗は将軍と二人きりで会う時さえ脇差(短い刀です)を帯刀することを許されていました。
ある日政宗は将軍に会い、出された酒を飲むと酔っ払って寝入ってしまいました。(意外ですが、政宗は下戸です)
それを見た側近が何気なく刀を調べると、それは竹光(木刀とも言われています)だったのでした。
刀を差す事を許されていてもなお、真剣を身に着けることはなかったのです。
家光などは、いち家臣にすぎない政宗の危篤にはわざわざ政宗の屋敷(その時政宗は参勤交代で江戸にいました)まで足を運び政宗を見舞ったとさえ言われています。
政宗もまた家光のその行動に感動し、満足に立ち上がることもできない状態であったにもかかわらず、
家臣に命じて着替えを手伝わせ、裃(かみしも)を身につけて出迎えたのだそうです。
そして、寛永13年(1636年)、享年70にして政宗はこの世を去ります。
その死に際も伊達男らしく、妻子にも死に顔を見せなかったと言われています。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
いかがでしたでしょうか。
なるべくわかりやすいことを重視したため所々端折ったところはありますが、
なんとなくでも『伊達政宗』という1人の戦国武将のことを知っていただけたなら、記者はとても満足です。
政宗の人物史はこれで終わりですが、これまでに書き切れなかった政宗の逸話がたくさんありますので
次回は『伊達政宗の逸話編』を書きたいと思います。もうちょっとだけ続くんじゃ。
長々お付き合い頂いてありがとうございました。

カテゴリ: コラム
2010年08月11日 23時28分14秒 Posted by もつなべさん ( 5,959 PV ) 勢い:3


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コメント(リンクの記載「http://」は行えません)
1 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/11(水)23:36:09. ID: QFYs11tdp
もつなべさんの記事は読みやすくて好きだ
これからも頑張ってGJでした
2 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/11(水)23:39:47. ID: 29Vk11SYp
え?
伊達正宗以外にもやらないの?
やってほしいな
3 名前:(*'-'*) 2010/08/11(水)23:42:44. ID: 8/y211XRp
とってもダイジェストしてまちゅね(*'-'*)モグモグ
4 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)00:03:13. ID: UGQg12MLp
正宗って豊臣・徳川あたりがまとめにかかってるころの戦国時代で
天下狙ってる野望を隠さないでバリバリ行動するところがすごいよね。
慶長遣欧使節もその一環だし
5 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)00:44:14. ID: TCoI12eHp
マジ面白い!もっと読みたい
それにしても
>関東マジ乙wwwwwww百万も兵がいてもwwww全員タマ無しwwwwwwm9(^Д^)プギャー
これにワロタw
6 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)00:53:36. ID: VlwA12Tqp
乙!
逸話編も期待
7 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)08:44:50. ID: 6fRg128kp
きっと伊達マニアなんだろうな
8 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)09:39:05. ID: cmm612nlp
次回は幸村キュンとの絡みですねwww
フヒヒwwwwww
9 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)12:48:34. ID: 9veE12rWp
伊達政宗に興味が持てた
瑞宝殿の近くに泊まった時、お参りに行けばよかった・・・今度行こう
10 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)13:42:10. ID: l34w12.op
一番最後まで生き残った戦国武将じゃないの?正宗って。
11 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)13:59:53. ID: LR9212UFp
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12 名前:名無し@ガガリアン 2010/08/12(木)14:43:32. ID: N0gQ12D3p
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