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【戦後69年特別企画】戦場に行ったお坊さんたちの記録



 敗戦から69年。第二次世界大戦を知る人間は年々少なくなっている。 1930年以後に生まれた人々はまだ生きて体験を語りあるいは書き残す機会もあろうが、実際に戦場に向かった人々の声を生で聞くことは相当に難しいだろう。訊かれても沈黙する人も多いだろう。
 第二次世界大戦中、多くの僧侶も戦地に赴いた。僧侶だということで慰霊を司ることも少なくなかったよう だ。私は職業柄、そういった、戦場の僧侶たちの自叙伝(多くは自費出版、私家版である)を入手する機会が多かった。ここに、その一部を紹介し、戦争と平和 と仏法を考えるよすがとしたい。
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私は戦友の人肉を食った!―『ニューギニア鈍兵録 地獄行脚』(日本図書刊行会、1996)

 著者の豊谷秀光は1921年生まれで天台宗長福寺住職、東京エステート代表取締役も務めた。佐倉連隊に所属しニューギニアでまさしく「地獄」を体験する。1943年9月のアント岬での爆撃で仲間がバタバタと倒れていくことから敗残が始まった。兵站は壊滅状況で、食糧には当然事欠く。《シュンギクによく似た草の葉がいたるところに生えていて、これを飯盒いっぱい茹でて栄養のたしにした。塩がなくてはとても口に入れられぬしろもので、だれもが一様に、伝染病の患者みたいに緑色の便を排せつしたのには苦笑するしかなかった》。それだけならまだいい。15、6センチくらいの大きなヤスデも食べた。蛆虫も食べた。その味は《なまで食べるウジの味は、エビの刺身のようだが、炒ったウジにはその上にほろ甘さが加わる》――そのウジは、死んだ兵隊に涌いたウジでもあった。

 では、戦友の人肉とは、人肉に涌いたウジの比喩だったというのか? 違う。とうとう飢えに耐えかね、豊谷は本当の人肉を貪る。《霊の去ったあとの肉体は、すでに生物ではなく、元人間だ。物体だ。器物だ。そのほんの一部を頂戴することが、そんなに深い罪悪か》人間の尊厳と餓鬼道の狭間で苦悩する。

 その味については、本書では何故か文学的にぼやかされており、むしろ「週刊読売」1979年31号の記事「私は戦友の人肉で生きのびた!!」の方が詳しい。飯盒に詰め込まれて煮られた戦友の人肉は《美味、これほどの美味に出会ったことはなかった。死んでもいいと思った。生きようとして食っているのに、死んでもいいと思うのは矛盾しているが・・・・》

 豊谷は復員後、
この地獄の体験を語るとしばしば罵詈雑言を浴びせられたという。《真相を知らされると自分たちに都合が悪く、それを圧殺・封じ込めようとする不気味な存在のあることを肌身に感じている》との痛切な叫びが本書なのである。

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死を賭して闘った兵士に浴びせられた罵声―『なぜ戦場に―僧の身に銃を持たされて』(妙法華院ろおたす叢書、1991)
 著者の西村智誠は1918年生まれで日蓮宗妙法結社教導。立正大学在学中に近衛歩兵第三連隊第六中隊に入り、中支・南支・仏領インドシナ・シンガポール・スマトラを転戦した。《空にとびかう砲弾、敵味方のひっきりなしの弾丸、耳をつんざく炸裂弾(中略)本当にこのような時は、恐怖を通り越してもう無我夢中です。撃たれて死ぬことも考えません。ただただ敵をやっつけろ、敵をやっつけろと、自分が僧侶の身であることも忘れてただ無心に撃つだけです》と回想する。そしてどこから来るかわからない敵軍の襲撃に脅え、上官がゲリラの首を軍刀で切り落とす様を目に焼きつけ、中国人の青少年便衣隊が自分の墓穴を掘らされ残酷に処刑される姿に体中の血が逆流するような感覚を覚える。

 復員できたのは1946年。帰路、和歌山田辺駅でこのような体験をしている。

《四、五人の四十歳くらいのブローカー(この言葉の意味は後で知りました。)達が私に聞こえよがしの大声で「今度の戦争は弱い兵隊ばかりで戦ったので負けたのだ。ほんとにわいらなんでこんな苦労せにゃならんのや、馬鹿馬鹿しい。」と、私ばかりでなく戦場で死の苦労をした他の兵隊をも侮辱するような事を平気で話しています。その言葉を耳にした私は、まだまだ戦闘精神が強く残っていました。むくむくと心の底から憤怒の上が突発的に大声となって出たのです。その男の前につかつかと立つと同時に「貴様らよく聞け、お前達今何と言った。兵隊が弱いから負けたというが、貴様ら戦争に行った者がこの中にいるか。実際に敵と戦った者がいるか。俺達兵隊はみんな貴様等を楽にしようとし、お前達のために六年も戦ったのだ。それを貴様ら何と言った。貴様らの心がくさっているから負けたのだ。これに対してお前等文句があるか。あるなら返答してみろ。やせても枯れてもまだ戦争精神は残っているぞ。」私はぐっと皆をにらみつけましたが、だれ一人言葉を発する者はありませんでした》

 西村は新間智照の弟子であり、平和を希求する心、軍国主義に対する怒りは日蓮宗僧侶の中でもとりわけ高い。《私はあの十五年戦争時代をかえりみて、今後いかなる事態が起ころうとも、絶対に戦争だけは回避しなければならぬと思います》とあとがきで述べている通りである。その西村にして、帰還中に浴びせられた罵声に対しては誇りを以て赫怒する。ここにこそ戦争のむごさを感じさせる。

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「皇軍」の規律遵守と「日本軍」の野蛮行為―『禅僧の戦記―高橋隊の歩み』(永昌院内高橋隊会、1988)
 一兵卒ではなく中尉という視点から書かれた戦争記録が本書である。著者の高橋定道は1911年生まれで曹洞宗永昌院住職、同宗宗議会議員・教化部長を歴任した。戦場はフィリピン。高橋は《我々は皇軍である。無法者の軍隊であってはならない》と自身にも隊にも常に言い聞かせていた誇りある軍人だった。高橋隊は本書の中で非道な略奪や虐殺、強姦などは決して行わなかったと繰り返し強調している。高橋自身も上官から誘われた賭博も拒否し、故郷に残した妻のことを想い慰安所通いはおろか手淫すらしなかったと、厳格に自身を律していたことを告白する。実際、高橋の宣撫活動はフィリピン島民に好意的に受け入れられていたことが本書からは伺える。

 曹洞宗教化部長まで務めた人間のことを無闇に疑うことは私にはできない。高橋隊のように「皇軍」の使命感を抱き不法行為をできるだけ少なくしようとした部隊があったことは確かだと思える。しかし1943年8月11日頃のイロイロ州サラでの戦闘における、友軍戸塚部隊の野蛮行為をこのように記録している。《腹いせで住民のしぼり上げが始まり、私の道案内人の区長の父親も妹も戸塚部隊のK曹長(終戦後戦犯裁判にて処刑された)の手により殺され、日本人の私でさえ震え上がったのである――私は日本軍の野蛮行為をこの目で現に見た――》

 敗戦後のタロモ収容所では「戦犯婿選び」なる行事がたびたびあったという。《米軍将校が比島住民(娘さん)を連れて通訳と書記を従えて、整列の片端から順次に首実検する「あの人です」と指示されると、「あの人の部下に私の父は(夫は弟は妹は)殺された(犯された)」と指名されると、戦犯容疑(婿さん)となる訳です》とのことだが、《私は高橋隊には戦犯該当者はいないと確信していた。で「婿選び」は案外平気で整列していた》という。

 高橋は強硬な靖国神社国家護持論者、首相の公式参拝肯定派でもあった。生長の家の書籍を愛読していたとも語っている。

おお、ダモイ!!―シベリア抑留の悲惨を語る僧侶たち
 戦争は南方だけでなく当然、北方でも起こっていた。シベリアに抑留された僧侶の回想録は比較的多い。曹洞宗法永寺住職・小沢道雄のエッセイ集『足無し禅師本日ただいま誕生』(柏樹社、1976)は、抑留中に重度の凍傷を負い、満洲牡丹江の陸軍病院(ソ連管理下)で両足を切断される様子が描かれる。《一食分がマッチ箱くらいの小さな雑穀パン一個と、スープ一杯だった。そのスープは五百名に三日分として塩鰊が二十五、六匹。スープにするには鰊を紐に結び、ぐらぐらと煮たった釜のなかに二、三分入れて急いで引き上げて、また次に使うというやりかただ。この煮汁を飯盒の蓋に一杯、鰊の油の丸い小さな輪が二つほど浮いていれば上等の部類である。そんなものしか食わせないで強制労働をさせられるのだからたまったものではない》この結果の凍傷と両足切断である。

 浄土真宗本願寺派西方寺住職の西本諦了も、朝鮮安東省で終戦を迎えた抑留組だ。『命めぐまれ、今を生きる―シベリア・ウクライナ抑留記』(文芸社、2002)では護送中《南満洲鉄道の沿線では、日本人集落や開拓団の集落は惨憺たる焼け野原に、日本人の夫人や子供の死体が至る所に散乱していた。しかもソ連兵の暴行により目を背けたくなるような腐乱した死体があちこちに散乱していた。これらの無残な遺体に、私は早速持参していた輪袈裟をかけ、念珠を持って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と何回となくお念仏を唱え、手を合わせざるを得なかった》という。西本自身も、劣悪環境での強制労働下で煮えたぎるコールタールを頭から浴びる事故など、悲惨な目に幾度も遭っている。
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 曹洞宗興雲寺住職の松崎禅戒もシベリア抑留経験者。上の画像のような、兵隊を骸骨の姿で描く画と随想の組み合わせによる『絵であかす戦争の素顔』(地湧社、1993)を発刊している。やはり食物の話が多い。凍った糞の中から未消化の大豆の破片をかき集めて食う様や、籾を腹いっぱい食べて腸内で腐り苦悶死した男の話などは異常なリアリティを持ってこちらに迫ってくる。一方、親切なロシア人にロシア料理のご馳走を「ダワイ、クーシクーシ、ダワイ」と勧められたこともあったという。

 異色なのは真言宗須磨寺派管長の小池義人による『シベリヤの鉄格子の中で―わが戦争と青春の墓碑銘』(芸立出版、1978)で、思想教育や強制労働の苛烈さも勿論描写されているが、女囚とのほの甘いロマンスや、「ヤポンツ、スマトリー!」などと言いながら局部を突きつけてくる女囚の話なども書いている。抑留の側面を知ることができる貴重な証言ではないだろうか。

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 天皇陛下万歳などと云って死ぬ者希なりしおかあさんさよなら殆どだ
 何故に人間同士が殺め合うかふと目頭がうるみたりし

 
 ニューギニア西のアンボン島等で玉砕一歩手前の死線を潜り抜けた曹洞宗観福寺住職・籾井孝之の従軍記録『南溟に生きて』(観福寺、1997。写真は原本)に残された歌である。籾井は僧侶として戦場でも絡子だけは持っており、戦友たちの死を弔うことが日課だったという。
 様々な僧侶の従軍体験を読むに、実に当たり前の話だが、戦争は地獄だった、と痛感するほかない。こういった証言をどう扱い、未来に活かすかは、戦時教学の研究と並んで、近代仏教研究の今後の一つの課題であるように思う。(文責・岸本元)

その他、従軍した僧侶の記録として書誌を記す。
宮澤善弘『絆―正観寺「和順」の発行40周年を記念して』(正観寺、1990。著者は浄土宗大本山光明寺総務部長。朝鮮羅南第十九師団歩兵七十三聯隊所属。シベリア抑留)
遠藤太禅『ビルマ蜻蛉』(しもつけ書房、1979。著者は曹洞宗西隆寺住職。インパール作戦に参加)
佐藤正導『日中戦争―ある若き従軍僧の手記』(日本アルミット、1992。著者は真宗大谷派僧侶、日本アルミット社長。河北省などを転戦)
松林宗恵『私と映画・海軍・仏さま』(大蔵出版、1985。著者は浄土真宗本願寺派福泉寺衆徒で言わずと知れた日本を代表する映画監督)
武田大玄『仏僧敗戦記―わが回想のビルマ戦線』(光陽出版、1995。著者は真宗大谷派僧侶、日本宗教者平和協議会理事)
中島正教『野田さんに語る弱兵従軍記随縁録』(私家版、1992。著者は浄土真宗本願寺派佛照寺住職。中部四支隊に学徒兵として応召、シベリア抑留)
和田良信『白線と短剣』(法玄寺出版部、1974。著者は足利工業大学理事長、浄土宗法玄寺住職。旧制一高から六○一海軍航空隊に入隊)
窪澤泰忍『戦場の僧』(近代文藝社、1995。著者は真宗佛光寺派聖徳寺住職。広東省、インドシナ、スマトラ、ジャワなどを転戦)
櫻木憲宗『往還―我が戦場の軌跡』(文芸社、2002。著者は臨済宗南禅寺派宗務総長。仏領インドシナやスマトラを転戦)

カテゴリ: 軍事
2014年08月15日 23時41分24秒 Posted by きしもとげん ( 17,509 PV ) 勢い:11


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1 名前:名無し@ガガリアン 2014/08/16(土)00:11:40. ID: c298766bp
珍しい視点から戦争を分析する試みはとても良かったです。
話はそれるのですが、人肉を食した話は古今色々な所から伝わっておりますが、結構美味しいと書かれている書物が多いのが気になりました。
極限状態で、異常をきたして上手く感じたのか元々美味しいのかがすごく気になります。