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新選組局長芹沢鴨 芹沢村芹沢貞幹の三男でないことが新史料により判明



1.jpg






















(小宮山昌秀「楓軒紀談七・八」より 国立国会図書館デジタルコレクション)



新選組筆頭局長芹沢鴨は行方郡芹沢村(現行方市芹沢)の出身であり郷士芹沢外記貞幹の三男玄太である――

このような説が近年まで通説とされていた。しかし今回新しい史料が見つかり、その事実が覆された。
見つかったのは国立国会図書館所蔵の小宮山楓軒(昌秀)による「楓軒紀談」の八巻目。

以下の記述が確認された。文中の「外記」とは芹沢村郷士芹沢外記清幹のことだ。貞幹の父にあたる。

「文政八年乙酉
(中略)
外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)半五郎(分家孫三人)門弥(府中税所氏養子孫三人中一人夭死)重五郎(浜野茂衛門孫養子ニ約)
女子ハ麻生家老畑四郎左衛門妻(孫四人中一人夭死)秋葉友次郎妻(孫四人)市川村萱場氏兵衛門妻(孫二人)芹沢村孫衛門妻(孫三人)
末一人未嫁一腹九人皆成長夭死アル事ナシ孫廿一人アリメツラシキ多子孫ナリ」


上記の文章は水戸藩の郡奉行などを務めた小宮山楓軒(1764〜1840)によって文政八(1825)年の年頭に記されたものである。楓軒は歴史家であり、水戸藩領に出向いて旧家の調査を行った。芹沢家とも懇意であり、聞き取りを行った際のメモ書きから発見されたかたちだ。
多治(志)見とは後の外記貞幹のことだ。当時はまだ父から襲名していなかったことが分かる。
「孫四人」とあるのは、清幹から見ての孫(貞幹の子)が四人いたということである。



2.jpg















                                             
 (「昭和大礼贈位書類第二冊」国立公文書館 「故 長谷川庄七(内務省二)」 芹沢外記の四男とある)

  

系図上で確認できる貞幹の子も四人。多気(長女)、興幹(長男)、成幹(次男)、三男(名前は不明)の順番だ。
それ以外にも四男として鹿島郡駒場村(現東茨城郡茨城町駒場)長谷川家を継いだ健久(庄七)が文政九(1826)年生まれである事が判明している。庄七は天狗党に加わり、元治元(1864)年那珂湊で戦死している。
文政八年始めに四人の子供が貞幹にいたことが分かったことにより、芹沢鴨の出自が再検討されることになった。

芹沢鴨の生年は文政九年、天保元(1830)年、天保三(1832)年の三説ある。
いずれにしても文政七(1824)年生まれの新選組副長助勤平間重助よりも年下であるというのが通説となっていた。
長谷川庄七の存在が確認されたことにより、芹沢外記の三男の生年は文政九年以前でなければいけないことになったが、更に今回の発見によって、最年少でも文政七年には生まれていなければおかしい計算となった。
筆者の没年から見て、後から修正したとも考えられず、国立国会図書館が所蔵するものは原本であることから、写し間違いの可能性も少ない。

そうなれば、芹沢貞幹三男の年齢は平間重助と同い年あるいは年上となり、従来の説は全くなりたたなくなる。芹沢鴨が死んだ文久三(1863)年の年齢は数え年で四十歳以上となり、三十代である鴨の没年とは合致しなくなる。

さらに芹沢外記の三男が「玄太」ということも最近は否定されつつある。
郷士芹沢家の菩提寺法眼寺の過去帖には慶応四(1868)年に「芹沢玄太妻」という人物が埋葬されていることが記されていると言われていたが、近年の研究によれば「芹沢兵太妻」の誤りであることが判明した。
兵太は貞幹の次男で家督を継いでいた芹沢成幹が慶応二(1866)年に没した後、慶応四年には既に家督を継承していた人物と見られている。
この人物と貞幹との続柄は不明だが、三男だとする見方が有力である。成幹と共に諸生党(水戸藩内保守派)の治療に当たった記録が残り、代々医術に通じた芹沢家関係者であったことは間違いない。

今回の発見により芹沢鴨芹沢村出身説の可能性は薄くなり、鴨が水戸藩士芹沢又衛門以幹の子である可能性は更に増すことになった。

カテゴリ: 歴史
2015年08月19日 16時27分51秒 Posted by 浦出卓郎 ( 10,720 PV ) 勢い:13


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