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新選組の斎藤一 結成前の足跡を示す新史料発見 京都で志士として活動? 会津藩士との接点も



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(「香渡晋贈位付属書類」所収 「文久壬戌歳上京中 應接録」国立公文書館 右から六行目に斎藤一の名前が見える)

先日、新選組の四番組頭斎藤一が明治以後「藤田五郎」と名前を変え、警察官になってから以降の履歴書が報道された。

新選組の斎藤一、謎多き経歴に光 維新後の従軍など新史料
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04HA8_V00C15A9CR0000/

このように公僕であったこともあり、明治期以降の足どりは比較的解明されている彼であるが、その新選組加入以前の経歴は未だ謎に包まれているといってもいい。

今回発見されたのは、新選組結成以前の文久二(1862)年頃の記録として斎藤一の名前が確認された史料だ。
新谷藩(現愛媛県大洲市新谷)の重鎮・香渡(こうど)晋(1830〜1902年)が文久二年から京都で交流した人名を記録した「應接録」の写本である。維新後は岩倉具視の佩刀として活躍し、憲法制定に関与したり、明宮(後の大正天皇)の御用掛を務めた。欲のない人物だったようで、岩倉の死後は郷里に戻り隠棲した。史料も多く焼却したらしい。

現在新谷には香渡の子孫はおらず、子孫蔵の原本は公開されていない。他に東京大学史料編纂所に「(文久二壬戌歳上洛中)応接録」が、大洲市立図書館に「香渡黙斉応接録」として二冊の写本が確認できている。今回は転載自由な国立公文書館のものを使用した。

戦前に著された景浦直孝(内藤鳴雪から原田左之助の回想を聞き取った郷土史家)の「香渡晋翁行状」(伊予史談31号)によれば、文久二年政治の中心が京都に移ったことを察した香渡は藩の重職を擲って上京し、長州藩の周布政之助、桂小五郎、久坂義助(玄瑞)らを始め、諸藩の重要人物と交友を深めた。その記録が「應接録」である。

斎藤の名前が載る頁に記載された人名は以下の通りである。

下鴨北明神うしろ 貫名
会津藩三本木住 大野英馬
両替町二条上ル 荒木正市
講武所 和田光之允
尾州 浅井将監
江戸 斎藤一
備前岡山 小原澄太郎
池田信濃守家来剣客 安部右源治
東寺ヨリ五十町西 向日明神々主六十部美濃守是香
                             号 一翁
烏丸二条上 天野善太郎
尾ノ道画人 木綿屋薫蔵
尾州 安達文一郎


小原澄太郎(重哉)は新選組隊士松山幾之助を殺害した人物として知られており、神職六人部是香は息子の曲直瀬道策を、新選組隊士であり、斎藤も所属した御陵衛士でもあった富山弥兵衛に殺されている。このように新選組に縁を持つ人物に挟まれて斎藤の名前が現れるのは面白い。

他にも藤本鉄石、連木堂飯居(いい)簡平の名前も確認できる。
この二人は文久三(1863)年会津藩が浪士を集めた際、「京都方浪士」の責任者として会津藩主松平容保に面会した人物であることは知られている。この際「江戸浪士」とされて容保の管理下に置かれたのが、後の新選組である。

特に注目に値するのが大野英馬である。彼は猪苗代城在勤大野伝九郎の子であり、能力から抜擢され京都守護職公用人になっていた。芹沢鴨暗殺直後、近藤勇の郷党に宛てて、広沢富次郎と共に、近藤が戻れない事を知らせた手紙を送っている。後に大野は戊辰戦争で戦死した。

斎藤一とそれほど名前が距たらないところに彼の名前が現れるのは重要であろう。大野の知遇のものとして、斎藤が香渡に紹介された可能性は否定できない。

「香渡晋翁行状」によれば文久三年の八月十八日政変以前に「会津藩士大野英馬は一日翁(香渡)の仮寓を訪い、情を述べて公武合体に党せんことを説き、且つ当今の務は佐幕勤王を以て要とすべきことを述べ再三来訪縷説したりしが、翁は断乎として之を拒絶したり」とある。
現在の幕末史研究では疑問視されている言葉が使われているが、この二人の間に何らかの確執が起こったことは推測出来る。

志士の間で交わっていた斎藤もこの時点で方針を変え、警察部隊である新選組での活動を主体にしていったと考えられる。


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(「香渡晋贈位付属書類」所収 左・香渡晋氏肖像)



残る問題としてはこの斎藤一が新選組のその人と同一人物かということである。シンプルな名前故に同姓同名の別人である可能性は残る。この部分についても考察したい。

斎藤一の基礎資料は「藤田家の歴史」(赤間倭子「斎藤一の周辺」「新選組隊士ノート」に全文収録 新人物往来社)であり、前半生はこの文書を基本として調査が進められている。

「山口一は十九歳の時、小石川関口に於いて旗本の士を殺し、父祐助の相年世話をせし吉田某が京都に於いて剣道場を開き居りし所に添書を持って至り、同家に寄寓す。吉田家に於いて、剣道優れ居りし為、先生の代稽古に行き居りしと」とあり、新選組加入前に斎藤が京都にいた事は証明出来る。

また同「應接録」の中に新谷藩が支藩に当たる大洲藩出身「戸田栄之助」の名前が現れる。彼もまた新選組と関わりを持った一人であり、京都で直心影流の道場を開いており、著名な剣客だった。

かといって文中の「吉田某」を戸田のことだとするのは飛躍が過ぎるが、これまで推測されていた聖徳太子流の吉田勝美よりは可能性が高いのではないだろうか。

「江戸 斎藤一」と香渡が書いてくれているのも大きい。会津藩士本多四郎が書いた「世話集聞記」(国立公文書館蔵)も斎藤の事を「江戸 斎藤一」と書き記す。

名前、出身地が一致、更に会津藩士との交流があるという三点を以て、この「斎藤一」が新選組のその人である可能性は限りなく高いと言っていい。

ここで面白い仮説が浮かんでくる。斎藤一は「江戸浪士」の中では限りなく「京都方浪士」と接点を持っていた人物だったのではないかと言うことだ。
事実、香渡の交友した人物の中には「京都方浪士」として選ばれた者の名前を何人か見付けることができる(例えば谷森外記、中沼了三、牧善助、家長弥太郎)。当初は両者の調停役として斎藤一が働いていたと考えてみれば、彼の評価は大きく変わる。

また文久二年前後から会津との関わりを持っていたということは彼が最後まで容保に忠節を尽くした理由も分かるのではないだろうか。

剣客だと思われていた斎藤一は幕末京都で活躍した志士たちと繋がりを持つ人物だったと言うことになる。一つの史料が現れたことによって彼の謎は更に増すのである。



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カテゴリ: 歴史
2015年09月07日 17時22分49秒 Posted by 浦出卓郎 ( 6,914 PV ) 勢い:11


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